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権利幸福 きらゐな人に 自由湯をば のましたい
オッペケペ オッペケペッポーペッポーポー 堅い上下 角とれて マンテルヅボンに 人力車 意気な束髪 ボンネット 貴女(きじょ)に紳士の いでたちで 外部のかざりは 良けれども 政治の思想が 欠乏だ 天地の真理が 解らない 心に自由の 種をまけ オッペケペ オッペケペッポ ペッポーポー 不景気極る 今日に 細民困窮 見返へらず 目深に被ふた 高帽子 金の指輪に 金時計 権門貴顕に 膝をまげ 芸者たいこに 金をまき 内には米を 蔵に積み 同胞兄弟 見殺しか いくら慈悲なき 欲心も 余り非道な 薄情な 但し冥土の 御土産か 地獄で閻魔に 面会し 賄賂遣ふて極楽へ 行けるかえ ゆけないよ オッペケペ オッペケペッポーポー 亭主の職業は 知らないが おつむは当世の 束髪で 言葉は開化の 漢語で 晦日の断り 洋犬(カメ)抱いて 不似合だ およしなさい なんにも知らずに 知ったかほ むやみに西洋を 鼻にかけ 日本酒なんぞは 飲まれない ビールにブランデー ベルモット 腹にもなれない 洋食を やたらに喰ふのも 負け惜しみ 内緒で後架で へどついて まじめな顔して コーヒ飲む おかしいね エラペケペッポ ペッポーポー 儘になるなら 自由の水で 国のけがれを 落したい オッペケペッポ ヘッポーポ むことけ島田に 当世髪 ねづみのかたきに 違いない かたまきゾロゾロ 引づらし 舶来もようで 立派だね 買う時ァ大層 お出しだろう 夏向ァ暑くて いらないよ 其時ァおっ母が 推量して お袖に隠して 一走り 細工にいてくるよ ヲヤ大きなこゑでは 言われない 内証だよ 舞台は結構(けっきやう)だ ごめんなさい オッペケペ オッペケペッポ ペッポポ お妾け嬢さん 権妻に 芝居を見せるは 不開化だ 勧善懲悪 わからなゐ 色気の所に 目をとめて 大事の夫を 袖にする 浮気をすること 必定だ お為にならない およしなさい 国会開けた 今日に 役者にのろけちや おられない 日本を大事に 守りなさゐ まゆげのないのが お好きなら かったいおいろに 持ちなんせ 目玉むくのが おすきなら 狸と添い寝を するがよい オッペケペ オッペケペッポ ペッポーポー 當り外さぬ 中村座 書生の所作事 オツペケぺ 川上ゑんちやうの 大一座 自由の権利で 教導し 板垣遭難 大当り 監獄写真は 物凄い 心の迷いで 赤いべべ 存廃娼妓の 問答は 得意の弁士で 大笑ひ 議論はまちまち 客の癖 オッペケペ オッペケペッポー ペッポッポー 親が貧すりや 緞子(どんす)の布団 敷いて娘は 玉のこし オッペケペオッペケペッポ ペッポーポ 娘の肩掛け 立派だが 父っさんケットを 腰にまき ドチラモお客を 乗せたがる 娘の転ぶを 見ならふて 父っさん転んじゃ いけないよ かへり車は 掛け引きだ ホントに転覆(かへ)しちゃ たまらなゐ オヤあぶなゐよ オッペケペ オッペケペッポ ペッポーポ 洋語を習ふて 開化ぶり パン喰ふばかりが 改良でねへ 自由の権利を 高調(こうてう)し 国威を張るのが 急務だよ 知識とちしきの 競べ合い キョロキョロいたしちゃ 居られなゐ 窮理と発明の さきがけて 異国に劣らず やッつけろ 神国名義だ 日本ポー 散切(ざんぎり)頭に白鉢巻、陣羽織を着て日の丸を片手に、軽快な七五調でリズミカルに弁じたてるのが『オッペケペ』(『オッペケペ節』とも呼ばれた)である。まずはスタンダードを記したが、時局に合わせて作詞が変わるのはモチロン、おそらくその場の状況で、かなりのアドリブも有ったと考えられる。風刺や煽動にとどまらず、ヒョイと観客に突込みを入れるあたりが音二郎の芸人らしさで、話芸ではないが役者が芝居の中で観客にイキナリ語りかける手口は、歌舞伎の口上にも通じる常套手段であった。 このオノマトペともつかぬ『オッペケペ』には、実は前史があり、笑福亭時代には「ヘラヘラ、ハラハラ」という合の手を、音二郎は巧みに使って大受けしたらしい。当時の芸人のヘラヘラ坊万橘の囃し言葉「ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラへ、オヘケヘッホー、ヘッヘッヘイ」…を単純化し、言わば盗作したものだが、当時は著作権というものは存在しなかった。「鼻下長のお利口連は勿論、丁稚に下婢に番頭に旦那に奥さんに僧侶神主まで、ヘラヘラハラハラと言いだす様になって、大流行」(『日出新聞』明治十九年四月十六日)…で、それに改作を加え出来たのが『オッペケペ』らしい。 こうした時局風刺の話芸は、元禄期前後に心中ものの芝居が流行し、それをもとにした絵草紙を売るのに、筋書きを謡や小唄に節をつけて売り歩いたのや、それと同時期に、世間の出来事などを報じた絵入りの『瓦版』の売り子が、事件のサワリを唄のように節を付けて売歩き『読売』を呼ばれたのを起源する。 香具師の売り口上などもその発展形態だが、『オッペケペ』以降の、壮士くずれが流行歌の歌詞やアジ・プロ的創作歌曲の歌詞を口演しながら売歩いたのも、その系譜に連なるものである。大正期の演歌師・添田唖蝉坊の『ラッパ節』『ノンキ節』などが、その流れと言ってよい。発達史としては『瓦版』以前からある説教師の説教話芸や、特にそれが通俗化した阿呆陀羅経を唱える願人坊主の祭文・ちょんがれ・浪花節などが混入して展開されたものと考えられ、いずれも芸能と商売と政治宗教思想宣伝が混在した、ジャンルとして規定できない行為をともなった話芸であった。 さて、音二郎一座の関東初見参は、明治二十三年八月横浜蔦座公演『明治二十三年国事犯顛末』と『松田道之名誉裁判』の二本立て。もちろん『オッペケペ』も演じて十五日間満員。『国民新聞』『東京日々』『東京朝日』などが、「書生芝居・滑稽演劇家川上音二郎大人気」と、盛況ぶりを報じている。そこを振出しに九月は東京・芝の開盛座・「書生芝居、太鼓を叩きまわる、一行凡そ三十二、三人」(「国民新聞」九月十二日)「芝開盛座、再び停止を喰わば荒事の活劇を覚悟」(同九月二十三日)と、新聞が過激な記事を掲載。少し注釈を加えれば、前の記事は、公演宣伝として行った仮装によるパレードを報じたもの。当時は相撲巡業の他は触れ太鼓による到来を告げる公演がなかったため、芝の住民は時ならぬ太鼓の音に、イッセイに大通りに飛び出したらしい。 「川上音二郎一座」や「開盛座」などの幟旗を押し立て、人力車三十数台に壮士風の一団を連ね、役者名の小旗のはためく中、音二郎は白の毛皮を座席に敷いて、紺の絣に鳥打帽の出で立ちで、自信満々の様子であったという。後の記事は、警視庁の脚本検閲でひともめ有った一件を報じたもの。たとえ芸能に名を借りても、政治的主張への官憲の追求は厳しかったのである。 この開盛座でも十日間の大入りを記録。勢いをかりて浅草文楽座での演説会も立錐の余地が無い有様。徳富蘇峰の『国民の友』は、「演説壇上、滑稽を弄して笑を博し、竹刀を振りて興を添ゆ、講釈師? 演説家? 忽ちにして俳優、忽ちにして鳴物入りの演説家、知らず俳優? 演説家?」と、驚きの色を隠せない。型破りの新人種の出現に、それを発火源として壮士の芸人化がワレモワレモと始まった。壮士伊藤仁太郎転じて政治講談師・伊藤痴遊などがこうして生まれて来る。
by 55kara
| 2006-01-29 10:34
| 壮士演歌
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