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曽根崎心中 道行文
この世のなごり 夜もなごり 死にに行く身をたとふれば あだしが原の道の霜 一足づつに消えて行く 夢の夢こそあはれなれ あれ数ふれば暁の 七つの時が六つ鳴りて 残る一つが今生の 鐘の響きの聞き納め 寂滅為楽と響くなり 鐘ばかりかは 草も木も 空もなごりと見上ぐれば 雲心なき水の音 北斗は冴えて影映る 星の妹背の天の川 梅田の橋を鵲の橋と契りて いつまでも 我とそなたは婦夫星 かならず添うと縋り寄り 二人がなかに降る涙 川の水嵩も増さるべし 冥途の飛脚 道行文 翠帳紅閨に 枕並べし閨の内 馴れし衾の夜すがらも 四つ門の跡夢もなし さるにても我が夫の 秋より先に必ずと あだし情の世を頼み 人を頼みの綱切れて 夜半の中戸も引き替へて 人目の関にせかれ行く 昨日のままの鬢つきや 髪の髷目(わげめ)のほつれたを わげて進じよと櫛を取り、手さへ涙に凍ゑつき 冷えたる足を太股に 相合炬燵、相輿の 駕籠の息杖生きてまだ 続く命が不思議ぞと 二人が涙 河堀(こぼれ)口 心中天の網島 道行文 頃は十月十五夜の 月にも見へぬ身の上は 心の闇のしるしかや 今置く霜は明日消ゆる はかなく譬えのそれよりも 先に消え行く 閨の内 いとしかはひと締めて寝し 移り香も なんとながれの蜆川 西に見て 朝夕渡るこの橋の 天神橋はその昔 菅丞相と申せし時 筑紫へ流され給ひしに 君を慕ひて大宰府へ たった一飛び梅田橋 あと追ひ松の緑橋 別れを嘆き 悲しみて 後にこがるる桜橋 今に話を聞渡る 一首の歌の御威徳 かかる尊きあら神の 氏子と生れし身をもちて そなたを殺し 我も死ぬ 北へあゆめば 我が宿を一目に見るも見返らず 子供の行方 女房の あはれも胸に押し包み 南へ渡る橋柱 越ゆれば到る彼の岸の 玉の台に乗りをへて 仏の姿に身の成橋 衆生済度がままならば 流れの人の此の後は 絶えて心中せぬやうに 守り度いぞと 及び無き 願いも世上のよまい言 元禄16年(1703)4月7日、大阪の曽根崎・露(つゆ)天神の森で心中事件が起こる。添い遂げられぬと知った堂島新地の遊女・お初と醤油屋の手代・徳兵衛が死んだ。 この心中事件は、すぐさま歌舞伎の世話狂言に仕立てられて、京都で舞台にかけられた。その事件からちょうど一月後の元禄16年(1703)5月7日。かの有名な近松門左衛門の人形浄瑠璃大ヒット作「曽根崎心中」がここに誕生することとなる。 当時の「今昔操年代記」という本は「そねざき心中と外題を出しければ、町中よろこび、入るほどにけるほどに、木戸も芝居もえいとうとう、こしらへに物は入らず~」と書き、興行側の発想と工夫で、興行が大当たりしたことを伝えている。 近松の巧みな文句は浄瑠璃太夫の語りに乗って、鮮やかなイメージを浮かび上がらせ、語りが生む現実世界がありありと眼前に広がるような見事なできだった。その優れた名文の最たるものが、「お初・徳兵衛」道行の文章である。 「この世の名残、夜も名残、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなりー」 二人が手に手をとって死出の旅に向かう冒頭の部分。七五調の名調子は、いわゆる「みちゆき道行」といわれるものだが、情緒的な感覚がみなぎっている。江戸時代の太田南畝(蜀山人)が書いた随筆「俗耳鼓吹」には、当時の有名な儒者・荻生徂徠がこの文章を読んで「七つの時が六つ鳴りて~」のくだりまで来た時、「妙処此中にあり、外は是にて推しはかるべし」と絶賛したと書いている。以後、名文の代表といえば「曽根崎心中」の道行文といわれるくらい有名な文章になった。
by 55kara
| 2006-02-01 19:29
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