カテゴリ
以前の記事
メモ帳
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
草を取るなら、根をよく取りゃれ またと意根をはやしゃるな
意根なきよに根をきりおけば 水に花さく根なし草 つねに心をとり離しゃるな それが念仏、また極楽よ 坐禅しぶりに胸焦がしゃるな とらず、もとめず、坐禅をしやれ 善きも悪きも余所(よそ)から来ぬぞ 迷う我が身のこころより 親じゃ親じゃと我が儘(まま)するな 今じゃ子孫の気をかねる 神や仏を祈らずとても 直(す)ぐな心が神仏(かみほとけ) 人が見ぬとていつわるまいぞ 我と天地がいつかしる 鈍な者でも正直なれば 神や仏になるがすじ 利根才覚、鼻先出るは 誠(まこと)修行の足らぬ故 しれた事でも、しれぬというが それが誠の智者ぢゃもの 智者と言われて喜ぶならば それが愚かな人ぢゃもの 怒り腹立ち中途の雲よ 上の空には何もなし 惜しや欲しやと思うが餓鬼よ 餓鬼の種とて外にはないぞ 成るもならぬも心の儘よ 心許すな、怠るな 弥陀の名号、百万遍も 心ちらさぬ為としれ 心ちらさねば夫(それ)こそ浄土 勢至観音わきだちに 煩悩菩提と二つは無いぞ 知らにゃ、世界が皆別ぢゃ 惜しい可愛いの起こらぬ前は 何も思わぬ子の心 人に対して腹立つときは 早くわが身の愚痴と知れ 善きも悪しきも皆分別よ しらで居る時ゃ何がなる 惜しや可愛や面(つら)憎くや 無間(むげん)地獄の皆せめぢゃ 念仏しながら腹立つよりも 止めて家業に精出しやれ 独り居るとき衆中と思へ それで粗忽は無きものぞ 橋の下なる乞食を見やれ 金を持ても奢りゃるな 貧も富貴も皆浮雲よ 定めなき世と見るがよい 生まれ来るのも今死に去るも 君が誠のなりふりぢゃ 扨(さ)ても貴(とう)とや我が立ち姿 釈迦か阿弥陀の再来ぢゃ 金を持っても慢気はわるい もたぬ昔を忘るるな 死ぬも目出度い、生きるも目出た 兎角浮き世は仮の宿 心ゆかしも皆うその皮 銭がなければ、うとむもの 欲を心にはなれて見やれ 何が無くとも十分ぢゃ 天の昼中、夜中でくらせ それで世界が手に入るぞ 親をかならず粗忽(そこつ)にするな 親は神とも仏とも 昼も夜中も此の君故に 暑さ寒ぶさも苦にならぬ 親の威光を振るのはよいが 慈悲が無くては、ひょんなもの 大儀ながらも勤めをしやれ 廻(め)ぐる月日の在るうちは 心よくもて盗みをするな 道に背けば是れ盗人(ぬすびと)よ 人の悪しきを必ず言ふな そしる心が悪ぢゃもの 惜しみ貪り、因果に引かれ 出でて此の世に貧苦する 兎にも角にも天道まかせ 無理な願いをかけやるな 生死輪廻の車に乗りて 過去も未来も我が儘ぢゃ 後世も願うに名利を願ふ いとど苦をして煩悩嫌ふ 煩悩嫌(きろ)ふて菩提が好きぢゃ すきも嫌ひも皆な煩悩よ 善ぢゃ悪ぢゃと目に立つ内は 恥ぢて修行を精出しゃれ 智者も善者も浮世を見るに 色と金には皆迷ふ 人を悪しきと思ふが邪見 悪ういふ気が無きゃよかろ 兎角怒るな、短気を出すな 死せば来世は蛇(じゃ)となるぞ 口と心と身の行ひと 術(すべ)とくらべて身を持ちゃれ 聞いてすまして悟りをしやれ 我慢邪慢の根を切りやれ 野辺の送りの煙を見やれ あすは我が身もあの如く 生きて居ながら死んだがよいぞ それで万事が手に入るぞ 子供妻をも捨て置いたるか 入るに入られぬ法(のり)の道 耳で見分けて、目で聞かしゃれよ 夫れで聖(ひじり)の身なるぞや 有為(うい)の転変、其の儘忘れ 元の赤子の気を持ちゃれ 悟りふりする面(つら)恥かしや 元の凡夫がましぢゃもの 心一つを悟りて見れば こうぢゃそうぢゃの音もなし 唯(ただ)ぢゃ、ただぢゃと皆様おしゃる わしは只ではいやでそろ 唯と心得うかうかするな 根なしかづらにからまるぞ 捨ててはびこる根の無いかづら 蔓は越後に、根は佐渡に 根なしかづらに、花茶屋かけて 釈迦や達磨が客となる 心願不善 念経無益 (心願不善ならば、念経するも益なし) 不義取財 布施無益 (不義な取財ならば、布施するも益なし) 不明心性 問答無益 (心性不明ならば、問答するも益なし) 不借元気 服薬無益 (元気を借りずんば、服薬するも益なし) 心高気微 転学無益 (心高くとも気微〈かすか〉ならば、転た学ぶも益なし) 時運不通 狂求無益 (時運通ぜざれば、狂求するも益なし) 生不孝親 死祭無益 (生に親に不孝ならば、死して祭るも益なし) 不断殺生 戒軍無益 (殺生断ぜずんば、軍を戒〈いまし〉むるも益なし) 一行目の「草を取るなら、根をよく取りゃれ」は草取りの大切な心がけで、「根が残っていると草はすぐに生えてくる。草を取るなら手間がかかっても根をよく取らなければいけない。長い目で見ればその方がはるかに手間がはぶける」の意。 「またと意根をはやしゃるな」の「意根」とは、「遺恨」に掛けて、「恨み、つらみ、憎しみの根を生やしてはいけませんよ」と言っているようにも聞こえる。 「扨(さ)ても貴(とう)とや我が立ち姿 釈迦か阿弥陀の再来ぢゃ」。この一節は、坐禅和讃の「衆生本来仏なり」をさらに力強く宣言したものである。一休さんの作といわれる「本来の面目坊がたちすがた 一目見しより恋とこそなれ」を思い出させる。「本来の面目」とは自己の本心のことで、それこそが生きた本当の仏さまなのだ。もうひとつ一休さんの歌を紹介すると「我のみか釈迦も達磨もあらかんも 此君ゆえに身をやつしけり」。 「天の昼中、夜中でくらせ それで世界が手に入るぞ」。理屈に合わない一節であるが、よそ見をするなということであろう。真っ暗闇の夜中には何も見えない。見えなければ、キョロついて腹を立てたり欲ばったりすることもない。人間は見えすぎ聞こえすぎで苦しんでいる。よそ見をすれば、たちまち草ぼうぼうになる。 「生きて居ながら死んだがよいぞ それで万事が手に入るぞ」も同じである。 「耳で見分けて、目で聞かしやれよ 夫れで聖(ひじり)の身なるぞや」も同じ消息であろう。眼で聞いて耳で見るならば、見れども見えず聞けども聞こえない。要は見たり聞いたりした事にとらわれるな、と言いたいのであろう。 最後の二行の「捨ててはびこる根の無いかづら 蔓(つる)は越後に、根は佐渡に。根なしかづらに、花茶屋かけて、釈迦や達磨が客となる」はむずかしい。苦労して抜き捨てたはずの雑草が、ふたたび根を出して繁茂し始め、また釈迦や達磨の出番がきたという事だろうか。草を抜いてその辺に捨てておくと、雨が降って根が付いてしまうことはよく経験することである。 あるいは、根のない草に花が咲いてそこにお浄土が出現する、と言うのだろうか。 根なしかづらは、根のない草をあらわす白隠禅師の造語かと思っていたが、調べてみたら実在する植物であった。ヒルガオ科のつる性植物で、小さな白い花をつける目立たない草である。
by 55kara
| 2006-02-05 05:52
| 道歌もの
|
ファン申請 |
||