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一 祁山(きざん)悲秋の 風更けて 陣雲暗し 五丈原(ごじょうげん) 零露(れいろ)の文(あや)は 繁くして 草枯れ馬は 肥ゆれども 蜀軍の旗 光無く 鼓角(こかく)の音も 今しづか 丞相(じょうしょう)病い あつかりき 清渭(せいい)の流れ 水やせて むせぶ非情の 秋の聲 夜(よ)は關山(かんざん)の 風泣いて 暗に迷ふか かりがねは 令風霜の 威もすごく 守る諸營(とりで)の 垣の外 丞相病い あつかりき 帳中(ちょうちゅう)眠りかすかにて 短檠(たんけい)光 薄ければ こゝにも見ゆる 秋の色 銀甲(ぎんこう)堅く よろへども 見よや待衞(じえい)の 面影に 無限の愁い 溢るゝを 丞相病い あつかりき 風塵遠し 三尺の 劍(つるぎ)は光 曇らねど 秋に傷めば 松柏(しょうはく)の 色もおのづと うつろふを 漢騎十萬 今さらに 見るや故郷の 夢いかに 丞相病い あつかりき 夢寐(むび)に忘れぬ 君王の いまわの御(み)こと 畏みて 心を焦がし 身をつくす 暴露のつとめ 幾とせか 今落葉(らくよう)の 雨の音 大樹(たいき)ひとたび 倒れなば 漢室の運 はたいかに 丞相病い あつかりき 四海の波瀾 收まらで 民は苦み 天は泣き いつかは見なん 太平の 心のどけき 春の夢 群雄立ちて ことごとく 中原(ちゅうげん)鹿(しか)を 爭ふも たれか王者の 師を學ぶ 丞相病い あつかりき 末は黄河の 水濁る 三代の源(げん) 遠くして 伊周(いしゅう)の跡は 今いづこ 道は衰へ 文(ふみ)弊れ 管仲(かんちゅう)去りて 九百年 樂毅(がっき)滅びて 四百年 誰か王者の 治(ち)を思ふ 丞相病い あつかりき 二 嗚呼南陽の 舊草廬(きゅうそうろ) 二十餘年の いにしえの 夢はたいかに 安かりし 光を包み 香をかくし 隴畝(ろうほ)に民と 交われば 王佐の才に 富める身も たゞ一曲の 梁父吟(りょうほぎん) 閑雲(かんうん)野鶴(やかく) 空(そら)濶(ひろ)く 風に嘯(うそぶ)く 身はひとり 月を湖上に 碎(くだ)きては ゆくへ波間の 舟ひと葉 ゆふべ暮鐘(ぼしょう)に 誘はれて 訪ふは山寺(さんじ)の 松の影 江山(こうざん)さむる あけぼのゝ 雪に驢(ろ)を驅(か)る 道の上 寒梅痩せて 春早み 幽林(ゆうりん)風を 穿(うが)つとき 伴(とも)は野鳥の 暮の歌 紫雲たなびく 洞(ほら)の中 誰そや棊局(ききょく)の 友の身は 其(その)隆中(りゅうちゅう)の 別天地 空のあなたを 眺むれば 大盜(たいとう)競(き)ほひ はびこりて あらびて榮華 さながらに 風の枯葉(こよう)を 掃(はら)ふごと 治亂興亡 おもほへば 世は一局の 棊(き)なりけり 其(その)世を治め 世を救ふ 經綸(けいりん)胸に 溢るれど 榮利を俗に 求めねば 岡も臥龍(がりょう)の 名を負ひつ 亂れし世にも 花は咲き 花また散りて 春秋(しゅんじゅう)の 遷(うつ)りはこゝに 二十七 高眠遂に 永からず 信義四海に 溢れたる 君が三たびの 音づれを 背(そむ)きはてめや 知己の恩 羽扇(うせん)綸巾(かんきん) 風輕(かろ)き 姿は替へで 立ちいづる 草廬あしたの ぬしやたれ 古琴(こきん)の友よ さらばいざ 曉(あけぼの)たむる 西窓の 殘月の影よ さらばいざ 白鶴(はっかく)歸れ 嶺の松 蒼猿(そうえん)眠れ 谷の橋 岡も替へよや 臥龍の名 草廬あしたの ぬしもなし 成算胸に 藏(おさま)りて 乾坤こゝに 一局棊(いっきょくき) たゞ掌上(しょうじょう)に 指すがごと 三分の計 はや成れば 見よ九天の 雲は垂れ 四海の水は 皆立(たち)て 蛟龍飛びぬ 淵の外 三 英才雲と 群がれる 世も千仭(せんじん)の 鳳(ほう)高く 翔(か)くる雲井の 伴や誰そ 東(ひがし)新野(しんや)の 夏の草 南(みなみ)瀘水(ろすい)の 秋の波 戎馬(じゅうば)關山(かんざん) いくとせか 風塵暗き ただなかに たてしいさをの 數いかに 江陵去りて 行先は 武昌夏口の 秋の陣 一葉(いちよう)輕く 棹さして 三寸の舌 呉に説けば 見よ大江の 風狂ひ 焔(ほのお)亂れて 姦雄の 雄圖(ゆうと)碎けぬ 波あらく 劔閣(けんかく)天に そび入りて あらしは叫び 雲は散り 金鼓(きんこ)震(ふる)ひて 十萬の 雄師は圍(かこ)む 成都城 漢中尋(つい)で 陷(おちい)りて 三分の基(もと) はや固し 定軍山の 霧は晴れ 汚陽(べんよう)の渡り 月は澄み 赤符(せきふ)再び 世に出(い)でゝ 興(おこ)るべかりし 漢の運 天か股肱の 命(めい)盡きて 襄陽遂に 守りなく 玉泉山(ぎょくせんざん)の 夕まぐれ 恨みは長し 雲の色 中原北に 眺むれば 冕旒(べんりゅう)塵に 汚されて 炎精(えんせい)あはれ 色も無し さらば漢家の 一宗派(いちそうは) わが君王を いただきて 踏ませまつらむ 九五(きゅうご)の位(い) 天の暦數 こゝにつぐ 時建安の 二十六 景星(けいせい)照りて 錦江(きんこう)の 流に泛(うか)ぶ 花の影 花とこしへの 春ならじ 夏の火峯(かほう)の 雲落ちて 御林(ぎょりん)の陣を 焚(や)き掃ふ 四十餘營の あといづこ、 雲雨(うんう)荒臺(こうだい) 夢ならず 巫山(ふざん)のかたへ 秋寒く 名も白帝の 城のうち 龍駕(りょうが)駐(とどま)る いつまでか その三峽の 道遠き 永安宮(えいあんきゅう)の 夜の雨 泣いて聞きけむ 龍榻(りょうとう)に 君がいまわの みことのり 忍べば遠き いにしえの 三顧の知遇 またこゝに 重ねて篤き 君の恩 諸王に父と 拜(はい)されし 思(おもい)やいかに 其(その)宵(よい)の 邊塞(へんさい)遠く 雲分けて 瘴烟(しょうえん)蠻雨(ばんう) ものすごき 不毛の郷(きょう)に 攻め入れば 暗し瀘水(ろすい)の 夜半(よわ)の月 妙算世にも 比(たぐい)なき 智仁を兼ぬる ほこさきに 南蠻いくたび 驚きて 君を崇(あが)めし 「神なり」と 四 南方すでに 定まりて 兵は精(くわ)しく 糧(かて)は足る 君王の志 うけつぎて 姦(かん)を攘(はら)はん 時は今 江漢(こうかん)常武(じょうぶ) いにしへの ためしを今に こゝに見る 建興五年 あけの空 日は暖かに 大旗(おおはた)の 龍蛇(りょうだ)も動く 春の雲 馬は嘶(いなな)き 人勇む 三軍の師を 隨へて 中原北に うち上る 六たび祁山の 嶺の上 風雲動き 旗かへり 天地もどよむ 漢の軍 偏師節度を 誤れる 街亭の敗(はい) 何かある 鯨鯢(げいげい)吼(ほ)えて 波怒り あらし狂うて 草伏せば 王師十萬 秋高く 武都(ぶと)陰平(いんぺい)を 平げて 立てり渭南の 岸の上 拒(ふせ)ぐはたそや 敵の軍 かれ中原の 一奇才 韜略(とうりゃく)深く 密ながら 君に向はん すべぞなき 納めも受けむ 贈られし 素衣巾幗(そいきんかく)の あなどりも 陣を堅うし 手を束(つか)ね 魏軍守りて 打ち出でず 鴻業果(はた)し 收むべき その時天は 貸さずして 出師(すいし)なかばに 君病みぬ 三顧の遠い むかしより 夢寐に忘れぬ 君の恩 答て盡す まごゝろを 示すか吐ける 紅血(くれない)は 建興の十三 秋なかば 丞相病い 篤かりき 五 魏軍の營(えい)も 音絶て 夜(よ)は靜かなり 五丈原 たゝずと思ふ 今のまも 丹心(たんしん)國を 忘られず 病いを扶(たす)け 身を起し 臥帳(がちょう)掲げて 立ちいづる 夜半の大空 雲もなし 刀斗(ちょうと)聲無く 露落ちて 旌旗(せいき)は寒し 風清し 三軍ひとしく 聲呑みて つゝしみ迎ふ 大軍師 羽扇綸巾(うせんかんきん) 膚(はだ)寒み おもわやつれし 病める身を 知るや情(なさけ)の 小夜(さよ)あらし 諸壘あまねく 經(へ)廻(めぐ)りて 輪車(りんしゃ)靜かに きしり行く 星斗(せいと)は開く 天の陣 山河はつらぬ 地の營所(えいしょ) つるぎは光り 影冴えて 結ぶに似たり 夜半の霜 嗚呼陣頭に あらわれて 敵とまた見ん 時やいつ 祁山の嶺(みね)に 長驅(ちょうく)して 心は勇む 風の前 王師たゞちに 北をさし 馬に河洛に 飲まさむと 願ひしそれも あだなりや 胸裏(きょうり)百萬 兵はあり 帳下三千 將足るも 彼れはた時を いかにせん 六 成敗遂に 天の命 事あらかじめ 圖(はか)られず 舊都(きゅうと)再び 駕(が)を迎へ 麟臺(りんだい)永く 名を傳ふ 春玉樓(ぎょくろう)の 花の色 いさをし成りて 南陽に 琴書(きんしょ)をまたも 友とせむ 望みは遂に 空(むな)しきか 君恩(くんおん)酬(むく)ふ 身の一死 今更我を 惜しまねど 行末いかに 漢の運 過ぎしを忍び 後(のち)計る 無限の思い 無限の情(じょう) 南成都(せいと)の 空いづこ 玉壘(ぎょくるい)今は 秋更けて 錦江の水 痩せぬべく 鐵馬(てつば)あらしに 嘶きて 劔關の雲 睡(ねぶ)るべく 明主の知遇 身に受けて 三顧の恩に ゆくりなく 立ちも出でけむ 舊草廬 嗚呼鳳(ほう)遂に 衰へて 今に楚狂(そきょう)の 歌もあれ 人生意氣に 感じては 成否をたれか あげつらふ 成否をたれか あげつらふ 一死盡くしゝ 身の誠 仰げば銀河 影冴えて 無數の星斗 光濃し 照すやいなや 英雄の 苦心孤忠の 胸ひとつ 其(その)壯烈に 感じては 鬼神も哭かむ 秋の風 七 鬼神も哭かむ 秋の風 行(ゆき)て渭水の 岸の上 夫の殘柳(ざんりゅう)の 恨み訪(と)へ 劫初(ごうしょ)このかた 絶えまなき 無限のあらし 吹(ふき)過ぎて 野は一叢(いっそう)の 露深く 世は北邱(ほくぼう)の 墓高く 蘭(らん)は碎けぬ 露のもと 桂(かつら)は折れぬ 霜の前 霞(かすみ)に包む 花の色 蜂蝶(ほうちょう)睡(ねむ)る 草の蔭 色もにほひも 消(きえ)去りて 有情(うじょう)も同じ 世々の秋 群雄次第に 凋落し 雄圖(ゆうと)は鴻(こう)の 去るに似て 山河幾とせ 秋の色 榮華盛衰 ことごとく むなしき空に 消え行けば 世は一場(いちじょう)の 春の夢 撃たるゝものも 撃つものも 今更こゝに 見かえれば 共に夕(ゆうべ)の 嶺の雲 風に亂れて 散るがごと、 蠻觸(ばんしょく)二邦 角の上 蝸牛の譬 おもほへば 世ゝの姿は これなりき 金棺灰を 葬りて 魚水の契り 君王も 今泉臺(せんだい)の 夜の客 中原北を 眺むれば 銅雀臺(どうじゃくだい)の 春の月 今は雲間の よその影 大江(たいこう)の南 建業の 花の盛も いつまでか 五虎の將軍 今いづこ 神機(しんき)きほひし 江南の かれも英才 いまいづこ 北の渭水の 岸守る 仲達(ちゅうたつ)かれも いつまでか 聞けば魏軍の 夜半の陣 一曲遠し 悲茄(ひか)の聲 更に碧(みどり)の 空の上 靜かにてらす 星の色 かすけき光 眺むれば 神祕は深し 無象(むしょう)の世 あはれ無限の 大うみに 溶くるうたかた 其(その)はては いかなる岸に 泛(うか)ぶらむ 千仭暗し わだつみの 底の白玉 誰か得む 幽渺境(さかい) 窮(きわ)みなし 鬼神のあとを 誰か見む 嗚呼五丈原 秋の夜半 あらしは叫び 露は泣き 銀漢(ぎんかん)清く 星高く 神祕の色に つゝまれて 天地微かに 光るとき 無量の思 齎(もた)らして 「無限の淵」に 立てる見よ 功名いづれ 夢のあと 消えざるものは たゞ誠 心を盡し 身を致し 成否を天に 委(ゆだ)ねては 魂遠く 離れゆく 高き尊き たぐいなき 「悲運」を君よ 天に謝せ 青史の照らし 見るところ 管仲樂毅 たそや彼 伊呂の伯仲 眺むれば 「萬古の霄(そら)の 一羽毛」 千仭翔(かく)る 鳳(ほう)の影 草廬にありて 龍と臥し 四海に出でゝ 龍と飛ぶ 千載の末 今も尚 名はかんばしき 諸葛亮 この詩は、三国誌で有名な諸葛孔明が野に下って雌伏していたときに、劉備から「三顧の礼」をもって軍師にに迎えられ、漢室の再興を計り、後、丞相(総理大臣)の地位についたが、任半ばで病没するまでの孔明の生涯を詠み上げた、日本の詩壇では類を見ない壮大な歴史叙事詩である。 土井晩翠は明治4年に仙台で生まれた。第二高等学校を経て東京大学で英文学を専攻し、 明治30年に卒業した。明治32年には彼の詩壇における地位を決定づけた詩集「天地有情」が上梓され、島崎藤村や国木田独歩とともに日本近代詩の創設者となったのである。 しかし、「晩翠調」とも言うべき彼の詩の特徴をなす題材、語彙、声調は、その後日本詩壇を襲った欧米詩の流れに後れをとり、彼の名声はたちまち衰え、彼の詩の影響は僅かに旧制高等学校の寮歌に残るのみとなったのである。彼の詩集は、今日書店の店頭はおろか、地方図書館でも入手・閲覧が困難である。
by 55kara
| 2006-02-01 07:13
| 軍(いくさ)もの
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